自分の定めた善悪は間違っている
天気がいいですね。過ごしやすい季節となりました。なによりDMSOを解凍せずに済むことが本当にストレスフリーです。
とはいうものの、天気のよさに反して僕のいまの気持ちは鈍色の曇り空ですけども笑
早速ネガティブな話で恐縮ですが、大したことない出来事やタスクのはずなのにそれに参ってしまって弱音を吐きたくなる自分にうんざりしています。
みんなにとっては普通にできることが自分には難しいことなのか、それともやっぱり自分が甘えているだけなのか、どちらにしろ悩ましいことではあります。
そもそも悩む必要もありませんが、結局はそんな弱い自分に勝てない(自分の醜い部分を認めて、それを改善する姿勢がない)限りは解決できないことなんだろうかとぼんやり考えてます。
ぼんやりついでに考えていることがひとつありまして、それは悪いことは本当に悪いのか、良いものは本当に良いものなのかという視点について一度改めようかなと思っていることです。これが今日書きなぐるテーマです。
考え方や手法、知識にしろ、これは正しい、これは違うという判断で人間は動いていると思います。自分も物事を教わるときは大体は「これはいい」「これはだめ」と刷り込まれています。白黒はっきりした方がシンプルなので、「これ本当はダメなんだけど今回はこういうことあるからまぁ別に問題はないよ」というように妥協した教えをするよりもはるかに定着しやすいんですよね。
でも、言葉遊びとなりますが、これまで教わったことは本当に「正しい」のか。
ここで大事なのは、全部を疑って、何も受け入れないというわけではなく、身に着けたものを鵜吞みにしないことだと考えます。
僕は特にそうなんですが、教わったことに対して疑問や自分の意見をもたず、鵜吞みにしてしまう癖があります。わかった気になる、というのもその一環だとは思いますが、果たして本当にそうなのかと一度自分に質問し、自分なりに学びなおすことは大事だと思います(言うだけ言ってできてないのが現実ですが)。
「こうに違いない!」という考え方が危ないんですよね。平面説もポリマーは非導体しかないという考えも、超電導転移温度が40Kが上限だという考えも…実際はそうでなかった、という一種のパラダイムシフトが起きたように、必ずこうだというものはないんですよね。
法律も昔は問題視されず、今は取り締まりの対象になったり、子どもに対する教育方針も昔と今とでは変わったりしています。ビジネスや組織論においても従業員に対する扱い方は(例えばですが)機械の部品から家族の一員へと変わってきています。昭和と平成の世代の考え方も同様です。
要は、時代に沿って、ルールや定義、価値観は変わっているんですよね。
それを把握したうえで、どうしてそれが正しいのか、どうしてそれは間違っていると言えるのかを、一度自分の頭で考える習慣をつけることは、この先とても大事になってくると思います。
また、「逆にその間違っていることが正しいのだとしたらどういう理由がついてくるか」という考えも訓練としてやるのもよさそうではあります(もちろんその逆も然り)。例えば、歩きスマホを懲罰の対象ではなく、尊重する対象になるとしたらとか、化石資源の削減はしない方がいいのではとか(実際にニューヨークでは歩きスマホしてる人に対して主導権を握らせるというマナーがあります。要はよけずに歩きスマホしてる人にぶつかった一般人が悪いという考え方)
それを考えて正当性が取れる一面が出てくるのか、それでもやっぱり揺るがないものだったのかは、考えてみないとわからないです。
頭ごなしにいい悪いは決められませんし、0か100とも限らないんだという視点が、少なくともビジネスやライフスタイル、サイエンスの面において重視した方がいいことなんじゃないかなと思ったりしています。
そうしないと痛い目を見るのは自分ですし、なによりもったいない生き方をしてしまいます。
って私は考えますが、この価値観も決して正しいわけではなく、あくまで私自身の中で大切にしてることにすぎません。誰かに「でもそれってこうだよね」「僕はこう思うけどな」という意見を聞けば、自分の考え方を改めることだって十分にあります。
そんなわけで、今回はここまでにします。タイトルに沿ったこと書けているのかな。
ともあれ、結構デリケートな話題に触れましたが、こんな戯言も数年経ってもう一度読み返せば「何言ってんだこいつ」という感想を抱くかもしれませんね。
それでは!